グイノ神父の説教

 
C年

待降節の主日 

四旬節の主日
 
待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
主の降誕


四旬節第1主日
四旬節第2主日
四旬節第3主日
四旬節第4主日
四旬節第5主日
枝の主日



     待降節第1主日   C 年  20211128 グイノ・ジェラール神父

         エレミヤ33,14-16     1テサロニケ3,12-4,2     ルカ21,25-2834-36

 待降節の初めに当たり、教会はこれから3週間にわたって理解しにくい話を聞かせようとします。不幸を予想する預言者は、この話の内容を利用して恐ろしい災いを約束することで簡単に人々を騙ます。既に、中世の人々にとっては1000年という年は恐怖の年でした。皆が世の終わりを待っていました。「ものみの塔」のエホバの証人たちは何回も詳しい時を教えて世の終わりを預言しました。ノストラダムスは「空から、恐怖の大王が現れる」と予想して1999728日に、また、マヤのカレンダ20121221日に世の終わりが起こると予想していましたが何も起こりませんでした。

 カトリック教会は、不安を募らせる話を聞かせることで私たちを不安の渦に陥らせるつもりありません。むしろ私たちのキリスト教的人生におけるとても大切なことを知らせたいのです。ルカは今日の福音の個所として世の終わりについて語りません。ルカは私たちの生きている現実世界によく似ている近未来について話しています。地震、津波、戦争、疫病、自然破壊と環境汚染、気候変動は私たちの日ごとの問題です。

 ですからイエスは私たちにいったい何を言いたいのでしょうか。きっとこの種類の試練が、イエスが数日後に受ける受難と死の試練や、あるいは全人類が耐え忍ぶ試練や災いが私たちを脅かすものとなってはいけないということです。すべての試練から良い将来が出て来ることをキリスト者はよく知っているからです。そういう理由で、イエスは自分の死の中に災いと新しい世界を生み出す栄光に輝いている自分の到来を結びつけました。

 待降節は喜びに溢れている期待の時です。イエスは私たちが自分の目の前のことよりも遠くを見るために頭を上げるように、私たちを誘います。悪から完全に開放された未来を歓迎するために、希望は試練と危機を乗り越える経験をするときの重大な助けです。オリーブの庭で、イエスは血の汗を流すほど苦しみもだえました。苦しみの杯が遠ざかるようにイエスは頭を上げて、父なる神を仰ぎ見ながら祈りました。それによってイエスは自分の苦悩を支配して、委ねられた使命を全うしました。今日、イエスは私たちが同じことをするように招きます。「身を起こして頭を上げなさい。神をずっと見つめて、勇気を出して、心が鈍くならないように注意しなさい。立ったままで、いつも目を覚まして祈りなさい」とイエスは私たち一人ひとりを誘っています。これは責任のある賢明なキリスト者になるための立派なプログラムではないでしょうか

 この待降節の第一主日と共に新しい典礼の年が始まりました。この年がどうなるかは、誰もわかりません。しかしイエスは私たちと共に歩み、歴史の中心におられることを私たちはよく知っています。今年のシノドスのテーマが一緒に歩むように誘っています。それは私たちがうろたえることなく、主のみ前に立つことができるように、そして傍におられるキリストの現存が私たちを取り込み変化させるためです。古い世が立ち去り、新しい世界が生まれようとします。これについて考えた聖パウロはこの世の出産が難しくて苦しい(参照:ローマ8,19)と書きました。ですから希望を持って、今与えられた待降節を祈りの内に過ごしましょう。それは私たちを救うために来られる「人の子の前に立つことができるように」(参照:ルカ21, 36るためです。アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

        待降節第2主日   C 年 2021125日  グイノ・ジェラール神父

               バルク5,1-9  フィリピ1,4-68-11  ルカ3,1-6

 神の喜びの内に入るように預言者バルクは誘っています。それができるように私たちが「悲しみと不幸の衣を脱ぎ、神から与えられる栄光で飾り、頭に永遠の栄光の冠をつけ」なければなりません。また喜びの衣だけでなく、正義と光と慈しみの衣も身に纏うことが必要です。これこそ待降節の美しいプログラムだと思います。

 私たちにとって最も大切なことを見分けるように聖パウロは招きます。ますます、「神への深い知識を身に着けて」(フランシスコ会訳)、知らず、知らずのうちに、私たちはキリストの光を身に受け、そして神への栄光の賛美となるのです(参照:エフェソ112)。預言者バルクと聖パウロが願ったことを洗礼者ヨハネは自分のやり方で繰り返します。主の道を整えなければなりませんが、まず自分自身の内にそれを実践するべきです。神の救いが人の心に芽生え、キリストにしっかりと結び合うならば、だんだんその救いは聖霊の力によって、私たちの言葉や行いに自然と現れ広がるはずです。洗礼者ヨハネは、はっきりと宣言しました。「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。神への生き方の証しによって私たち一人ひとりがそれを実現するように召されています。

 昨日は洗礼者ヨハネがイスラエルの砂漠で叫んでいました。今日でも彼は私たちの心の砂漠で叫び続けています。なぜなら、神はご自分を啓示するために人の心に来られるからです。神は昔、預言者ホセアにそれを打ち明けました。「わたしは彼をいざなって荒れ野に導き、その心に語りかけよう」(参照:ホセア2,16)と。確かに、私たちの人生の砂漠に、まだ完全にできた道がなければ、そこでよく聞き分けてから従うべき叫ぶ声があります。この声が神のために、真っ直ぐで平らになった道を準備するように誘います。この道を、自分の持っている力と弱さや苦しみ、悩み、喜びと悲しさ等という結局は自分のありのままで作り始めるでしょう。今日も神は私たち一人ひとりの心に語っています。

 
神は決して無理なことを要求しません。神は永遠の昔から私たちを愛してくださるので、ご自分の声に耳を傾けることと、言ったことをよく理解するように願っています。それは私たちが喜びに溢れ、輝いている状態で神との出会いを深く味わうためです。神の言葉が与える光を通して私たちはまことの光を見ることができます(参照:詩編 36, 9)。ちょうど占星術学者たちが星の光を見て出発し、世の光であるイエスを発見したように。

 私たちは朝から夜遅くまで、有益なだけでなく、無益な話なども含めて色々な話や、多くの情報や広告を浴びせられています。そのために神の言葉を聴き難くなっています。万が一神の言葉を聴くことができても、注意深く聴こうとしないのであっと言う間に忘れてしまいます。ですから、この待降節の短い期間に、神の声を聴き分けるための時間を作りましょう。神は私たちの父であり、私たちは神の子どもたちです。もし家族の精神を持つなら、せめて毎日5分間でもいいですから神が私たちに語りたいことを聴くように努力しましょう。


 私たちの怠惰のせいで、私たちに命を与えた神を無視する冷酷な人になってはいけません。神は永遠に私たちを生かしたいのです。私たちの過失によって、永遠に神から遠ざかる道を歩まないために、詩編の言葉を思い出しましょう。「主よ、あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯…主よ、御言葉のとおり(わたしに)命を得させてください」(参照:詩編119,105107)。 アーメン

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

       
待降節第3主日   C  20211212日  グイノ・ジェラール神父

              ゼファニヤ3,14-188     フィリピ4,4-7     ルカ3,10-18

 「では、わたしたちはどうすればよいのですか」。洗礼者ヨハネに洗礼を受けるために来た人々の質問は、実現されない刹那的な決定で満足したくない彼らの誠実な決意を表しています。

 洗礼者ヨハネの答えは、単純で具体的であり、また個性を持っています。男性と女性、年寄と若者、無名の人と有名な人、どんな仕事をしていてもすべての人が自分の心と生き方を変えるように招かれています。それぞれの人は、他の人を批判するよりも、自分の良心の糾明をしなければなりません。

 確かに洗礼者ヨハネは、誰にでもすぐにできる実現しやすい具体的な行いを提案します。私たちがどのような場所や、どのような状況に置かれてもヨハネの提案は私たちの具体的な立場にとても合っています。元気であろうと病気であろうと、富んでいてもいなくても、私たちは自分の生活様式を整理し、変革する必要があります。簡単に言えば、洗礼者ヨハネは、余分な物、服や食べ物などを、それを持っていない人々に分かち合うことを願います。また、仕事で決まった給料や受けるべきものを貰っておいて、それよりももっと多くを受けるため不正な行為をしないことをヨハネは要求します。各自が正直に委ねられた仕事をしながら、他の人を支配するために暴力的なことをしないことや他の人を犠牲にして金を儲けないように洗礼者ヨハネは真剣に願います。

 今、私たちが理解したように、洗礼者ヨハネの願いははっきりしていて、明確であり、曖昧さのないものです。この願いは世間を騙して走り回るような偽物の価値の物とは反対のことを要求します。確かに、2枚の服を持っている人は、バーゲンの誘惑に陥って4枚持つようになります。お金を得るために、またより多くの利益を手に入れるためにすべてのよい機会を逸するなら、それを他の人が利用するだろうと言われています。もし、あなたが立派な地位を築いて大きな影響力を持ったなら、平気で何でも自分の思うことをするでしょう。しかし、この考えはとてもよこしまなものであり、良い勧めとして聞かされるかも知れませんが、これはとても危険な幻です。

 成功や幸福、満足できる充実への道は決してこの様な幻の偽りを通しては到達しません。ベツレヘムの馬小屋に導く道は、この幻の偽りから遠く離れています。洗礼者ヨハネが勧める必要な回心の行いにより、人は無事に本当の命に生きることができるのです。ただ新たにされた考えと生き方だけが、クリスマスの夜に生まれて来る幼子イエスを歓迎する揺りかごになることができるのです。預言者ゼファニヤは、それをはっきりと宣言しました。「主はお前のゆえに喜び楽しみ 愛によってお前を新たにします」と。そして聖パウロはそれに次のことを加えます「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と。


 待降節の残りの日々を通して私たちが洗礼者ヨハネの願いを実践することができますように。そうすれば、私たちを救いに来られるイエス・キリストの喜びに私たちは深く入ることになります。アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

      待降節第4主日 C 年 20211219 グイノ・ジェラール神父

              ミカ5,1-4  ヘブライ10,5-10  ルカ1,39-45

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と聖霊で満たされたエリサベトは叫びました。実に、エリサベトの口を通して神ご自身がマリアに声をかけています。マリアは神の幸せを受け、分かち合います。父なる神の子の母となるために、マリアは神から信じる恵みと共に心の貧しい人となる幸せを受けます。

 マリアは神から信仰の恵みを受けることによって、大天使ガブリエルが教えたように「恵みに溢れる方」となりました。信仰をもってマリア神の言葉を心と体に受け止めたから、神はご自分の力でマリアを包みました。マリアの信仰は活動的なので、天使のメッセージを受けて直ぐに、神の現存で満たされた状態になり、急いでエリサベトの所へ行きました。もちろん、人は目でそれを見ることは出来ません。しかし聖霊に照らされてエリサベトはその事実を大声で叫びます。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」と。マリアがまだ体に感じることができないことをエリサベトは啓示しました。つまり「神の言葉はマリアのうちに肉となっています」(参照:ヨハネ1,14)。

 確かにエリサベトは神がマリアに与えてくださった恵みを発見しながら、それについて証しています。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」とびっくりして叫びます。エリサベトには何も見えませんが聖霊は「人の知恵をはるかに超えている事実を」エリサベトに啓示しました。言い換えれば、マリアと同ようにエリサベトも神ご自身から信仰の恵みを受けました。そいう訳でエリサベトは自分の幸せを叫びます。

 とても若いマリアとを重ねたエリサベトの間に旧約と新約の間の狭い門があります。それはエリサベトの体内に宿っているヨハネによって示されています。ヨハネはマリアの体内に宿っているキリストの現存を感じて、喜んで踊りました。エリサベトとヨハネマリアの挨拶の声を耳にした時に、神が全人類にもたらす救いを味わう幸せを受けました。それで、昔、預言者たちが伝え知らせた神の約束が、今マリアの内に実現されているとエリサベトは宣言します。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と。

 私たちが毎週日曜日に聞き、また聖書を読む時に聴く神の言葉が、必ず実現されることを信じるように、今日、エリサベトは私たちを誘います。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じるなら、私たちは、なんと幸いでしょう」。

 神がマリアとエリサベトに与えた喜びを、洗礼者ヨハネの誕生を待ちながら、彼女たちは3か月の間、分かち合ったに違いありません(参照:ルカ1,56)。そして同時に預言者ゼファニヤの言葉を黙想して、体験したでしょう。「主なる神はお前のただ中におられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにする」(参照:ゼファニヤ3,179)と。確かに信じることは喜びと幸せの泉であり、それを誰も奪うことができません(参照:ヨハネ16,22)。アーメン。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

         主の降誕(夜半)C   20211224日  グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ9,1-6     テトス2,11-14      ルカ2,1-14

 ある一人の子どもが2000年前に生まれたから私たちはクリスマスを祝っています。それがとても「良い知らせ」だと告げるために、天使たちはわざと天から降ってきました。しかし、どうして、難しい状況の中で生まれた貧しい人々の中の一人の子どもが、今生きている私たちのために「良い知らせ」になっているでしょうか。理由はとても簡単です。この子の名は「インマヌエル」であり、また「イエス」ですから。この名前は「私たちを救うために神は私たちと共におられる」という意味だからです。

 イエスの誕生は「神は私たちを愛し、私たちの世話をし、そして何よりもまず神が私たちの幸せを望む」ことを述べています。これこそ全人類に与えられたとても良い知らせです。多分、どこかに神がおられるということを想像することが出来ます。しかし、神が私たちを個人的に愛し、私たちを永遠の幸福に導くために一緒に留まっていることを知るためには、預言者たちと天使たちの啓示だけがそれを信じさせることができます


 確かにクリスマスとは、自分が神によって愛されていることや、神が私たちと同じ人間になったことを発見することです
。「私たちの命は神の命に等しいものだ」と飼い葉桶の中に寝かされ、布で包まれた幼いイエスは教え啓示します。

 本当に「人間の命は神の命と同じように聖なるものであり、尊いです」。神は既に昔預言者イザヤの口を通してそれをはっきり言いました「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛しています」(イザヤ 43,4)と。愛、赦し、慈しみと深いあわれみに溢れるイエスの人生そのものは、同時に彼の死と復活もこの事実をはっきりと見せ、そしてこれを証しています。


 司教聖アタナシオを初めすべての教会の博士たちは言いました。「人間が神となるために、神は人間になりました」と。「人間という私は、なんと不思議な神秘でしょうか。私は小さな者であると同時に大きな者です。惨めな者であると同時に偉大な者です。死すべき者であると同時に不死の者です。地上に属する者であると同時に天に属する者です。私はキリストと共に葬られ、キリストと共に復活し、キリストと共に世継ぎとなり、神の子となり、さらに神そのものになるのです」とナジアンズの聖グレゴリオ司教はいいました。

 神の愛は私たちに神の命と栄光と聖性を豊かに与えます。キリストの誕生は「私たちが神の内に生きることそして神が私たちの内に留まること」を可能としました。これこそクリスマスの良い知らせです。これこそ私たちに与えられている「愛の神秘」です。勿論、人は神の親密さに入ることを拒むことが自由にできます。

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見た」と預言者イザヤは言いました。この光は、クリスマスの光であり、私たちに対する神の愛の光であることを私たちは知っています。「インマヌエル・私たちと共におられる神」は全てを光輝かせます。「人間になった神である」イエス自身はそれを自分の弟子たちに啓示しました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(参照:ヨハネ8,12)と。

 ですから、このクリスマスの夜に、神に感謝しましょう。そして神の愛と平和が私たちの心を限りなく満たすように深く願いましょう。そうすれば、今の時は私たちにとって、本当の良い、楽しいクリスマスになるに違いありません。アーメン。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
                    
                 四旬節 と 聖週間

    四旬節第1主日  C年  202236日   グイノ・ジェラール神父

            申命記26,4-10  ローマ10,8-13  ルカ 4,1-13

 神はご自分に向かって叫ぶ人の叫びをよく聞くと申命記は教えています。「主の御名を叫ぶ者は救われる」(参:ヨエル3,5)と言った預言者ヨエルの言葉を思い起こして、聖パウロは私たちを励ましています。サタンの誘惑を受けたイエスは、私たちの世話を丁寧にして下さる神に対する揺るぎない信頼を持つように誘っています。

 私たちの神への信頼と従順をサタンはどうしても奪いたいのです。偽りの自由を提案することによって、サタンは全ての可能性を利用して私たちを神から遠ざけようと諦めないからです。イエスが模範としてよく見せたように、神への従順によって人は真の自由を見つけるのです。を言えば、イエスが実現して言われたこと「わたしが父によって生きる」(参照:ヨハネ6,57)を、この四旬節の間に私たち一人ひとりは体験するはずです。自分のすべてが主のみ手にあり、自分の存在が神だけにかかっているということを認める人を、父なる神は守り、愛し、自由にされます。

 とんでもない誘惑を受けるほどにイエスは人間のあらゆる状態を分かち合うことを望みました。マタイとルカの福音は三つの誘惑しか述べていません。最初の誘惑は神の栄光のため、あるいは人々の奉仕のためではなく、自分自身の虚栄心のために「人々をびっくりさせ、驚嘆させるために不思議なことを行う」誘惑です。イエスはたくさんの不思議な奇蹟を行いましたが、その恵みを受けた人が神に感謝するようにいつもイエスは願いました。

「人を支配すること」や「自分の意見を人に強いること」や「自分が絶対に必要だ」、「自分はなくてはならぬ人物だと思う」ことは第二の誘惑です。このような誘惑は謙遜に反対します。イエスは、権威のある言葉で話すことや、ご自分の強さを表すことも簡単にできましたが、すべての人が社会の中で自分の正しい場所を受けるように「全ての人のしもべ」になりました


「神を試みること」や「神に挑むこと」は第三の誘惑です。この誘惑は「人自身が神だ」「神は全くらない」または「神を利用して他の人々を服従させる」こと出来ると思い込ませようとします。イエスは、いつも謙遜に、父なる神に向って、そのみ旨を行うために揺るぎない従順を見せました。

 今週から始まった四旬節の間に、神が私たちになさったすべての事を思い出すことと感謝を捧げることで、私たちはこの三つの危険な誘惑を防ぐことができます。自分の歴史を再発見しましょう。その歴史の中に神が働きかけていますので「聖なる歴史」となるはずです。もし私たちがイエスと同じように「わたしが父によって生きる」(参照:ヨハネ6,57)と言えるなら、とても幸せでしょう。確かに聖書の教えをよく考察するとイスラエルの民は神から受けた良い行いと恵みを思い起そうとしなかった時に、神に対して不忠実になり偶像礼拝に走り込んだのです。感謝は忠実への土台です。ですから、絶えず、至る所で私たちを愛し、私たちを救う神に感謝することで、神に忠実に生きる恵みを保ちましょう。


 復活へ第一歩として今日できることは、わたしたちが神の赦しを受けることと回心することの必要性を正直に認めましょう。絶えず主に向って自分の弱さ、高慢、虚栄、愛の足りなさを叫びましょう。神はご自分に向って叫ぶ人の叫びをよく聞きます。また、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と聖パウロは私たちに思い起こさせました。ですから心を閉じてはなりません。むしろ、揺るぎない信頼を持て主に向って叫びましょう。 アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

       四旬節第2主日 C 年 2022313日   グイノ・ジェラール神父

             創世記15,5-1217-18      フィリピ 3,17-4,1     ルカ9,28-36

 アブラハムと契約を結ぶことで神は彼にご自分の栄光を示しました。星空をアブラハムに見せながら、神は星の輝きがいつか彼の子孫が受ける栄光を表すことを示し、またアブラハムを「すべての国民の父」(参照:創世記17,3)と定めました。栄光で輝いているイエスを通して、神はアブラハムと結んだ契約を実現しました。次に、イエスはペトロとヤコブとヨハネに、ご自分を信じ従う人々に与えられる栄光を見せようとしました。イエスの死と復活によって全ての苦難が変容することを、キリストへの信仰証し、保証します。キリストの十字架の栄光は、私たちの希望を支えながらイエスの父なる神への栄光へと導き、引き寄せます。この栄光が私たちの永遠の遺産になる、と聖パウロは確信をもって宣言します。

  3人の弟子たちが山の上で見たことをルカは不思議な方法で述べています。せっかくイエスが変容したのに彼らは非常な眠気に襲われていました。しかし「目を覚ましていると」(フランシスコ会訳)イエスの栄光を見ました。そして恐れている彼らは何をしたらよいか解らないので、ペトロは自分を安心させるために意味のない言葉を言い始めました。「ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかった」とルカは書きました。この混乱の真っただ中で、弟子たちは「ご自分の愛する子」としてイエスを指し示す神の声を聴くのです。そしてすべては以前の状態に戻り、今起こった出来事については誰も何も話しませんでした。

 どうしてルカは「神の子の栄光の内に現れるイエスの出来事」を述べているのでしょうか。確かに、復活されたイエスは、弟子たちにご自分を見せ、触れさせ、一緒に食べました。しかし大勢の人々の目の前では一度もこのように自分の栄光を見せませんでした。イエスはただ一度だけ「父の内に持っている自分のありのままの姿」を選ばれた3人の弟子たちに見せたのですが彼らはひどく眠かったので、はっきりそれを見たと言えないでしょう。彼らが見たのはまっ白で、強い、眩しい光でした。またそれはすぐ不思議な雲に隠れてしまいました。

 ルカの大切な教えは、祈っているうちにイエス変容したということです。父なる神に捧げられた祈りは実際に神の現存の前に人をおくので人を変容します。祈る人の顔に神はご自分の栄光の輝きを残すのです。多くの詩編は「御顔の光を私たちの上に輝かせてください」(参照:詩編4,7 119,135)と祈願します。

 「神の栄光」という単語は「神の神秘」を示し、それを啓示する聖書全体の目的です。神の栄光を見ることは神ご自身を見ることを意味します。モーゼは神を見る恵みを願いました(参照:出エジプト3318)。それを見たので、「彼の顔の肌は光を放っていた。イスラエルの民は恐れて近づけなかったので・・・モーセは自分の顔に覆いを掛けました」(参照:出エジプト34,30-35)。

 後に、預言者イザヤは次のように宣言します。「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム・・・起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」(参照:イザヤ51,17 60,1)と。 更に、私たちの信仰を輝かせるように聖パウロも誘っています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」(参照:2コリント4,6-7)と。兄弟姉妹の皆様、よく祈ることによって、私たちがいつも至る所で神の栄光の光を輝かせることができますように。アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

       四旬節第3主日  C年  2022320日    グイノ・ジェラール神父

        出エジプト3,1810,13-15     1コリント10,1-610-12     ルカ13,1-9

 神は私たちの逆境に対して決して無関心ではありません。奴隷されたイスラエル人の窮状に、神はご自分も苦しんでいるとモーセに教えました。そして、神は彼らを救うためにモーセの助けを要求しました。神はモーセにこの困難な解放を実現するために必要な勇気と意志を与えることにより、神は「ご自分の子供たちの苦難や苦しみを耐えられない父」の姿を啓示しました。

 イエスも枯れたイチジクの木の話を通して父なる神と同じように人の悪い状態耐えられません。イチジクの木がたくさんの人を養う豊かな実を結ぶように強く希望しています。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(参照:ルカ20,38)とイエスは言いました。神は命と健康恵み、そして死と悪のあらゆる力から解放することで私たちを幸せに導きます。神はご自身を与える命の泉です。「神gわたしたちをお選びになったのは、わたしたちを滅ぼすためではなく、主イエス・キリストのよって救うためである」(参照:1テサロニ5,9)。 神は私たちを切り落とすための斧は持っていません。ここに記された、たとえ話の良い園丁がイチジクの木が実を結ぶようにその周りを掘って、肥やしを入れる様に神は丁寧に私たちの世話をします。


 十字架の上で苦しんでいるイエスは終わりまで自分を殺そうとした人々の救いを望みました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」 (参照:ルカ 23,34)と。神の名によってイエスが差し出したこの救いの手を、誰かが掴んだかどうかについては、福音書は何も教えてはいません。

 ですから、私たちが皆、神が差し出している救いの手を掴むように四旬節は誘っています。聖パウロは今日の第二朗読を通して次のことを説明しました。砂漠の厳しい乾燥地帯を耐え忍んで歩んでいたイスラエルの人々は「同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と。この霊的な岩は今も私たちの日常生活の無味乾燥な精神状態の中について来ます。それは私たちの苦難と不幸を潤すためです。世の終わりまでイエスは私たちに伴い、私たちの喜びも悲しみも共に分かち合います。それは私たちを生かすため、また私たちに後に残る豊かな実を結ばせるためです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」(参照:ヨハネ15,16)と

 ですから、神に対して不満を抱き、自分を気の毒に思い、不幸の砂漠で喉の乾いた人にならないように、私たちに伴う命の泉である岩に向いましょう。また今日の詩編のことばを借りて神に語りましょう。「わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒します。主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい」と。

 そうすればきっと、神は昔モーセに言われたことを私たちにも言われるでしょう。「見よ、苦しんでいる、私の助けを必要とする人々を救い、解放するために私はあなたを遣わす」と。確かに全人類の歴史のあらゆるできごとに介入するために、神は個人的にまた共同体的に私たちの協力を願っています。神は救いの手を差し伸べています。その手を掴むことができるかどうか、良い選びをするように聖霊の助けを願いましょう。アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

        四旬節第4主日  C年 2022327日    グイノ・ジェラール神父

           ヨシュア5,10-12      2コリント5,17-21      ルカ15,1-311-32

 罪びとや徴税人とつき合っていたイエスについてファリサイ派の人々と律法学者たちは厳しく不平を言っていました。彼らは放蕩して帰って来た弟を憐れに思い寛大に迎える父に対して不平を言っているたとえ話の長男によく似ています。この長男は父の誘いに心を閉じています。この態度は心と考えを変えるようにと勧めているイエスの誘いを拒んでいるファリサイ派の人々と律法学者たちの態度です。

 イエスを囲んでいる罪びとや徴税人たちは、たとえ話の次男に似ています。次男は放蕩の結果すべてを失っても信頼をもって父の所に戻り、そして望んだものよりももっと多くのものを貰いました。このように回心する一人の罪びとのために、天には大きな喜びがあり、皆がそれを分かち合うように召されています(参照:ルカ15,7)。

 神あるいは隣人と和解することは、いつも皆と共に祝い喜びの雰囲気を作りあげます。イエスのたとえ話も聖パウロも証ししています。神と和解する人は新しい人となり、そしてその人の周りも新たにされるのです。このように財産を使い果たした放蕩息子は惨めな状況で父の元に戻った時に、父は彼に新しい服を与え、息子として認め、そして父の息子として相応しい尊敬のしるしを与えています。次男は、もはや豚のえさによってでは無く、人間に相応しい食べ物、立派なご馳走で自分の飢えを満たすことができます。次男の回心の決意と父との和解は、彼を家族の高い地位に置ました。というのは次男が受けた指輪は「父の判子」です。それは、父のすべてのものに対して次男全ての責任を受けたということです。指輪を通して、また声に出して「私のものは全部お前のものだ」と言うことで、たとえ話の父は二人の息子跡継ぎであることを明らかにしました。

  罪を悔い改めて、信頼をもって神に戻ってくる人に対して神が行うことについて、イエスのたとえ話は重大で明確な教えです。神の赦しは、考えられない素晴らしい恵みですので、これについて深く考える必要があります。赦しの秘跡を断る人は、たとえ話の長男や提案されている救いを拒んでいる律法学者たちやファリサイ派の人たちに似ています。

 たとえ話の父は神ご自身のイメージです。この父は自分の子供の自由を尊敬し、彼が離れることも許しますが、不安を抱いて彼の帰りを首を長くして待ち続けます。息子が帰ると、彼がまた遠くにいるのに、父は彼の方へ走り寄ります。何一つの咎めも言わずに彼を抱きしめながら自分の喜びと揺るぎない愛を示しました。父なる神も、私たちがご自分の子どもの資格を失うことを拒否しています。神の愛は命を与えます。「彼は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ」と。私たちも神の無限の愛の内に入るようにイエスは切に誘います。そして神に似ることも願っています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである・・・だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(参照:マタイ5, 4548)と。

 神どんな方かをイエスは、今日もう一度教えました。また、救う、赦す、美しくする、新たにする、さらに聖とする神の愛を受け入れるように、イエスは私たちを招きます。ですから、恐れずに感謝のうちに自分の罪の赦しをいただきましょう。私たちは神の子どもであることと、神の愛は限りのないものだという事実を赦しの秘跡は見事に体験させますから。アーメン。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

          四旬節第5主日   C年  202243日   グイノ・ジェラール神父

                 イザヤ 43,16-21  フィリピ 3,8-14  ヨハネ8,1-11

 新しい世界を歓迎するためには、昔のことばかりを懐かしまないようにと預言者イザヤは勧めています。そのことをよく理解した聖パウロは、自分に有利であった豊かな過去を無に等しいものと考えています。彼は思い切って未来に向かって、自分の人生の最高の目的としてキリストを選びました。また、姦通の罪に訴えられた女に対して、罪のない人が最初の石を投げるようにと願ったイエスの願いは、彼らが殺意に満ちた偽善を捨てて命を与える赦しを選ぶように誘っています。同時に姦通の罪に訴えられていた女にも、もう二度と同じ罪を犯さないことを願い、彼女が自分の人生に忠実に生きもう一度新しいページを書き始めるように誘います。

 「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」この言葉は「復活」の言葉です。このキリストの言葉は命を与え、人を立ち上がらせ、実現するには難しいけれども、明るい開かれた未来へとその人を遣わす言葉です。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」と神の名によって預言者イザヤは断言しました。聖パウロも「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・・目標を目指してひたすら走ることです」と証しました。

 「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスは断言しました。この言葉についてゆっくり考えたいと思います。「わたしもあなたを罪に定めない」。この言葉が私たちの頭と心に深く刻まれ、消え去ることのないように、わざとこの言葉を繰り返しました。神は絶対に人を罪に定めない、有罪の判決を下さない。神はそれができません。神は憐れみ深く、慈しみ深い神ですから。勿論、神は罪が悪いとはっきり断言しますが、決して罪びとに有罪の判決を下しません。確かに神は罪と罪びとをはっきりと区別します。神もイエスも罪びとを罪に定めません。むしろ、罪がもたらす死から罪びとを救うために、神であるイエスはご自分の命を捧げます。

 これこそ「神の慈しみ」であり、神の名は「慈悲」です。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(参照:ルカ6, 36)とイエスは私たちに要求します。キリストの教会も慈しみを表す教会でなければなりません。教皇フランシスコが書かれた『神の名は慈悲です』という本の中で、彼は次のように述べました。「教会は罪に定めるためではなく、神の慈悲である命を与える愛との出会いを可能にするためにそこにいます」と。消すことが出来ないものであっても、人は神の恵みでいつも自分の過去を乗り越えることができます。神の慈しみによって、罪の深い傷が残っても、この傷こそが神の慈しみによって、命、謙遜、共感と揺るぎない希望の泉になるのです。

 「私はあなたに有罪の判決を下さない」と姦通を犯した女に言われた言葉と態度は初代教会のキリスト者にとって(つまづ)きとなっていました。神の十戒と罪についての理解と教えをひっくり返すこの話を教会は長い間無視していました。その理由は、ヨハネの福音書のいくつかの古い原稿にしか見つからないうえに、他の福音書ではこの話を語っていないからです。しかし、イエスは「すべての罪はされる」(参照:マルコ3,28)と言われたので、聖霊の導きにより教会はやっとヨハネの福音のこの珍しい話のページを残すことを決定しました。教会が神について証しするのであるならば、神のように無限の慈しみと揺るぎない赦しの泉にならなければなりません。

 人を裁き、批判し、罪に定め、差別することを私たちは当たり前のように平気でするので、この福音の物語を何回も聞き直す必要があるのではないでしょうか。この話を聞く度に私たちは自分の偏見を捨て、神の憐れみと慈しみの内に完全に入るように誘われています。イエスに従って、神の慈悲に入り、そしてこの慈しみを上着として着ることにしましょう。アーメン。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


        枝の主日 C年   2022410日    グイノ・ジェラール神父

        ルカ19,28-40   イザヤ50,4-7   フィリピ 2,6-11   ルカ22,14-2356

 枝の主日を通して私たちは聖週間に入りました。今週はイエスの光栄あるエルサレム入場から始まり、復活が表す罪と死に対するキリストの勝利で終わります。

 しかしこの勝利はキリストの謙遜と内面的な平和、苦しみに対する忍耐、そして父なる神の御手への委ねに基づいています。受難の物語は特に不正や偽証、侮辱や誹謗、暴力に対するイエスの態度をよく見せます。イエスの態度は謙遜、平和、柔和、赦しそして祈りで満たされて輝いています。

  第一朗読を通して預言者イザヤは私たちを救いに来るはずの「主の僕」の忍耐と柔和を告げ知らせました。「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた」と。聖パウロも、特徴のあるこのイエスの態度をフィリピ教会の信徒への手紙の中で、自分の言葉で教えました。「キリストは、神の身分でありながら・・・自分を無にして、僕の身分になり・・・へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と。

 事実、キリストの深い平和が精神的、肉体的な恐ろしい戦いを隠しています。オリーブ山でキリストが流された血の汗がそれをはっきりと現しました。イエスの唯一の心配はどんな犠牲をはらっても、恐ろしい苦しみを受けても、あらゆる面で父なる神の意志を行うことでした。

 父の元へ戻る前に、イエスはこの珍しい平和を私たちに残し与えました。日常の出来事が個人的であろうと社会的であろうと私たちの内面的な平和を奪うことができることをイエスはよく知っていたからです。病気、無理解、物質的な困難、行われた不正、自分の心にある善と悪の戦いなどは何時か思いがけない時に自分の内面的平和を奪うことができます。

 ですから、イエスが与えた平和が私たちの心と生き方に深く刻まれるように願いましょう。またイエスが残されたこの平和がわたしたちを謙遜と信頼の内に守られますように。最後に、この平和がこの聖週間を通して、イエスの苦しい受難を思い起こす私たち伴いますように。そして私たちがイエスの復活の喜びと栄光を完全に味わうことができますように。アーメン。



トップページに戻る